地域社会・教育・講集団

地域社会を支えるものは様々なものがある。その一つに講集団というのは、重要な位置にある気がする。

歴史上、日本の地域社会は講集団を抜きに語ることはできない、というのは言い過ぎではないように思う。現に、地方史を紐解けば必ずと言っていいほど講集団の記述を見ることができる。❝歴史上❞と書いたが、今でも講集団が地域連携の手段として見出されて復活している地域もある。

例えば2022年、三重県尾鷲市天満浦で「庚申講」という民間信仰を下地としていた講集団が復活した、というニュースが出た。記事によると、この講は15年以上前に途絶えていたのだという。しかし、コロナ禍によって地域の人々が交流する機会が減ったのを一つのきっかけとして、住民交流の機会を作るために復活した。復活したからといって、前の形式と同じ形式で復活したわけではない。現代の住民たちの事情を汲んだ上で復活したのだ。

もともと「庚申講」は、暦の上での「庚申の日」の夜に健康長寿を願って徹夜して過ごす講集団である。しかし復活した庚申講は、参加者は高齢者が多いために身体への負担を考えて徹夜をしない。庚申の日のお昼間に集まり、1時間ほど歓談をして解散する。

講集団は、日本の伝統的な組織形態の一つであるが、その時々の参加者や住民の事情を汲みながら柔軟にアップデートされて現代まで紡がれてきた。この現代版の庚申講もその一つなのである。

さて、庚申講は民間信仰を下地にしているが、必ずしも全ての講集団が信仰を下地にされて作られているわけではない。例えば、経済協力や支援を一つの目的とした講集団も存在する。その中で、無尽講(頼母子❝たのもし❞とも呼ばれることがある)が一番有名な講集団と言えるかもしれない。

無尽講とは、金銭や物品を相互に融通しあう講集団のことで、金銭が一般に融通されている。その他に、物品を融通しあう無尽講もあって、昔は萱を融通しあって茅葺き屋根の修繕に使われたりした。地域社会は、こういった人々の相互扶助によって支えられてきたのである。

では、それがタイトルにも書いた『教育』とどう関わってくるのか。それは、講集団というのは住民たちの相互連携・扶助によって目的を達成しようとするが、その際に知識なども相互に交換・共有されるのである。

無尽講研究者の池田龍蔵が『無尽の実際と学説』の中で、無尽講の効果には「知識交換親睦の機会増加」と書いているけれども、講集団に加入すれば定期的に参加者と顔を合わせて話すことになる。そこで知識を共有したり交換したりして、参加者全員の知的水準を❝自然に❞底上げしていくことができるのである。そうして、また参加者たちはその後にそれを活かしながら社会を発展させていったのである。

講集団わけても無尽講は、かつて全国に存在したし、現代でも行われているところもある。また、無尽講は日本だけには留まらない。少なくとも、アジア・アフリカ圏において無尽講とほとんど同じ形式で作られ、営まれている。そこでもまた、地域社会・住民を支えるために運営されている。

講集団の一つ一つは小規模である。せいぜい10人から20人ぐらいではないだろうか。けれども、それが日本全国どこにいても存在していて、またそれが一つの国を飛び越えれば話は変わってくるように思う。それは、社会を支えるために人々が作り上げた知恵の結晶の一つとも言えるのではないだろうか。地域社会に依拠しながら、地域を飛び越えていき、世代を越えて紡がれながら現状に合わせて常に新しく作り変えられる。それは、講集団を知り参加した者一人一人が、いわば講集団という『文化』を受け継ぐ担い手となり、彼らがまた別の場所(それは、日本に限らない)でそれを❝実践❞することによって、違う受け継ぎ手を増やしていったのではないだろうか。

無尽講が、日本全国にある理由、世界中にある理由はこういったことも一つあるのではないだろうか。もし、伝播でなく自発的に作られたものならば、それはそれで私たち自身の中に『何か見えない大きく共通したもの』があると言えると思う。

※ニュース『尾鷲「庚申講」昼に復活 民間信仰 健康長寿願い歓談』読売新聞オンラインより

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